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明るいのが絶対いいって一体誰の基準なの?

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私はあんまり明るすぎる人、
張り切っている人と、
長時間いると疲れますけれどね。


ご自身が明るくいたいのであれば
「ご勝手にどうぞ」
ですけれど、

明るくいることを、言葉ではなく
態度や空気で強要される感じが
嫌でたまらないんです。




結局、その方の。明るさや前向きさに
周りが「余剰」や「過多」を感じるとしたら

たぶんそれは、その方が

「明るくしていよう!」
「前向きでいなくちゃ!」

と、心の中でご自身に言い聞かせているお声が、
大きすぎて周りにもれている状態だと思うのですね。





つまりは、その方がされている努力の余波が
こちらにまで伝わってくる、ということで、
こちらはそういった努力を必要と感じていないので
ひたすら鬱陶しいだけ、ということではないかなと。




例えば、(以前の?)ベッキーさんみたいな。
「必要以上に」明るく、前向きな方を見ても、
私はこれっぽっちも明るい気持ちにはなれません。

どちらかと言うと、痛々しいように感じます。

本人はムリをしているつもりはないのでしょうけれど、
どこか、ご自身ができること以上のことをしすぎというか、
ご自身の現実の理想の格差に
どうにか絶望しないようにしているみたい、というか。




そんなことを言っている、
引きこもりの私自身はどうかというと、
ふだんの私は、暗いか明るいか、でいうと
若干明るめなんじゃないでしょうか。

ちょうど、雪で作った小さな小さなかまくらをとおして
中のろうそくの明かりがぽやんと周りに
橙(だいだい)色をつける程度に。


そして、引きこもって家の中で過ごしながら
よく、声を立てて笑っています。




「ひとりでいるのに年中笑っているなんて
 あぶない奴なんじゃないか?」

と思われたかもしれませんね。


実際には、こんな感じです。




一番、私を笑わせるのは、私の犬です。


もう10歳になったというのに、
生まれて5か月目で、うちに来たのが昨日のことみたいに
好奇心いっぱいで、

ちょっとした物音、
例えば私が本のページをめくるたびに

「何かとんでもなくおもしろいことがあるんじゃないか?!」

というふうにキラキラと輝く目を見開いて
三角の垂れ耳をピン! と頭の真横に張って
短い2本の前足に、フンッと力を入れて
私の顔をじっと見るものだから。


もうそのいじらしさと、可愛さと、

「おもしろいこと(とおいしいこと)は
 これっぽっちも逃すまい!」

とでも思っている態度が可笑しくて、
笑わずにはいられません。




それに、興奮したり、嬉しいときには
家中を低速で走り回るのですけれど、
開きかけた扉のそばとか、
ちゃぶ台の下を通るときとかに、
「頭」のことを忘れちゃったみたいに

ゴンッ、ゴンッ、といちいちぶつけながら
行脚(あんぎゃ)するのも可笑しいのです。




郵便物や荷物が届いたときなどは
それはもう大興奮で、
何が来たのか確認しないと気が済みません。

開けるのに、ハサミを使うから
「危ないよ」と言うのだけれど、
文字どおり『鼻を突っ込』まないと気が済まなくて、

フンフンフンフンと空中で鼻を利かせながら

「何だろう、何が出てくるんだろう」

と待ち構える姿は、これがまた
いじらしくて、可愛くて、
そして私には、大したものは出てこない、と
分かっているから、
その必死さが可笑しくてたまらなくて

「大きな封筒だね。大事なものが来たかもよ?」

なんて話しかけながら、
笑わないではいられないのです。




私はそんなふうで、毎日、

「今日もいろんなことで笑って楽しかったね」

と、犬に話しかけながら一日を終えます。




そんな生活を、世界中の人が

「暗い」

と思ったって、私は構わないんです。


だって本当に嬉しいときや、本当に可笑しいとき、
本当に楽しいときや、本当に美味しいときだけ、

義務や意識をしなくても、自然と声を出して笑ったり、
とろけそうな笑顔になれたりするだけで、
十分、心に日が差したように
温かい気持ちになれるし、
心の底から、楽しい日々なのですから。

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