こんにちは
ゆっくり社長の片桐いつきです
このページでは前回までのダメ新入社員ぶりからさかのぼって
「知恵おくれ」と呼ばれ
生まれつきの落ちこぼれとして過ごした子ども時代にあった
もうひとつのおかしなことについて
お話したいと思います
「おとなりのおうちは
子どもだけで住んでるみたいよ」
突然そんなことをきいたら
あなたならどんなふうに感じますか
「どうやって生きてるんだろう」と
心配になるでしょうか
「親はなにをしているんだ!」と
腹立たしい気持ちがわいてくるでしょうか
いまなら189に連絡することを考えるかもしれませんね
「ただごとではない」状態がひんぱんに起こる
そんな環境で残された子どもたちは
どう生きているのか
ふつうは知ることのできない実態を
つぶさにお伝えしてみますね
にんげんどんな困難からもはいあがれる
そう信じる理由をあかすためです
*衝撃的な話が引き金(トリガー)になって
フラッシュバックやパニックを起こす可能性があったら
このお話は読まないでください
人にとっては衝撃的なことが自分には当たり前だった
とつぜんですがあなたは
『誰も知らない』
という映画をごぞんじですか。
映画『誰も知らない』 予告編
父親の違う4人のきょうだいの物語は
「子どもが4人もいる母子家庭」
という事実を周囲に隠し
母と息子のふたり家族だと偽って
アパートに引っ越してくるところからはじまります。
「お母さん好きな人がいるんだぁ」
「またぁ?」
そんなやりとりのあと
やがて母親はいえに帰ってこなくなり・・・。
というもう行く末の悲惨さが
いきなりにじみ出るような映画なのですが
わたしが衝撃をうけたのは
ひととはちょっとずれたところでした。
それは
「これが特別な物語として描かれて
賞をとるようなお話になるのか」
ということ。
だってわたしにとっては
親がとつぜん帰ってこなくなって
子どもだけで日々をどうにか暮らすのは
過去に体験したことのあるあたりまえのことだったからです。
作り話なんかじゃない 実際に存在する「おとながとつぜんいなくなる家」
あんまり家族のわるい話はしたくないなと思って
はじめこのことは書かないでいました。
でもものすごくダメなわたしでも
8年間まったく売上がなかった状態のあと
たった2年で会社を作れるようになったことと
「わたしにできたのだからあなたにもできる」
と断言できる明確な理由をお話しようとすると
やっぱりこのことを書かないと
どうしてもつじつまがあわなくなるので
ちょっとだけ書くことにします。
わたしは3人きょうだいの長女として育ちました。
ものすごい田舎の小さな町の
さらにはずれの田んぼに囲まれた貧相な建売住宅に
両親と5人家族で暮らしていました。
一見のどかな家族の風景ですが
この家にはひとつ不思議なことがありました。
それは
おとなが突然いなくなる
というもの。
両親が示しあわせたように
とつぜんいえに寄りつかなくなるんです。
一晩ふたりとも帰ってこないと
長女であるわたしは覚悟します。
「またあれだな」と。
こうなると父親も母親も
いつ帰ってくるかわかりませんでした。
携帯電話なんてなかった時代ですから
こちらから連絡をすることもできず
数週間でも何か月でも先の見えないまま
子どもだけで暮らしていくしかありません。
自分より小さなきょうだいたちの面倒を見るのはもちろん
家事の全部をこなして
公共料金も期日に間に合うように
納めることまでわたしの役目でした。
そう。問題はお金です。
数枚の千円札が決める命の境い目
「学校に行きながらいえのこともしてえらいね」
なんて言われることもあったけれど
自分が動けば解決することに
なんの疑問も負担も感じませんでした。
わたしの頭の中にいつでもあったのは
お金をどうするかという心配です。
わたしの育った地区では
小学校と中学校にかようと給食が出ました。
だから学校に入ってしまえば
とりあえず飢え死にすることはないので安心です。
おそろしかったのは赤ちゃんのこと。
まだおっぱいしか飲めないような幼い子どもでも
両親は平気でいえに残していきました。
自分の親ながらどういう神経をしているのか
まったく理解ができません。
わたし自身もまだ小学生の頃のことで
おもゆを飲ませるなんて知恵も知識もなく
「赤ちゃんはミルクがなかったら死んじゃう!」
と思っていました。
ちょっと想像してみてください。
もしあなたの目の前に
おなかをすかせて泣き叫ぶ赤ん坊がいたら。
そしてあなたにはその赤ん坊の
おなかをみたしてあげられる方法がなにもないとしたら。
いまのこの社会でお金がまったくないというのは
木も草もはえていない荒野で
道具ひとつもないまま生き延びろというようなものです。
たまたま雨風をしのげるほら穴ににげこみはしたものの
泣きやまない赤ん坊を腕に抱えたまま
その小さな命をなんとか明日へつなげるために
あなたになにができるでしょう。
からだいっぱいで泣きつづける赤ん坊は希望ではなく
恐怖のかたまりのように感じられるのではないでしょうか。
怖かったです。幼かったわたしも。
粉ミルクの缶がだんだん軽くなっていくのが。
プラスチックの軽量スプーンが
缶の底にあたるときに立てるあの
「コツン」
という音を聞くのがいやで
うわずみをすくうように
いつもそーっと粉末をすくっていました。
もちろんそれで
粉ミルクが減るのを遅くできるわけではなかったのだけれど。
そのうちにわたしは
どちらかの親がいるときには
スーパーに行ってもらうことをせがんで
粉ミルクの缶をため込んでおけばいいと思いつきました。
親は
「なんでこんなにいっぺんにミルクが必要なのか」
といぶかしがります。
「だって今日は安いから」とか
「何度も買いにこなくて済んで便利でしょう」とか
なんとか言いくるめて
安心できるだけのミルク缶を
買ってもらおうと必死でした。
でも子どもにしてはよくがんばったこの思いつきには
ある欠点があったのです。
それは
赤ん坊は大きくなると
その分たくさんミルクを飲むようになる
という当たり前の事実に気づいていなかったこと。
育児経験なんて小学生の子どもにはもちろんなく
先を読むとか計算するとかが極端に苦手だったせいで
結局わたしが「粉ミルクの恐怖」から解放されるには
赤ちゃんが離乳食を食べはじめるまで待たなければいけませんでした。
いえのどこにお金があるかは知っていたけれど
つかってしまうとそれがどんな理由であれ
「いっそころしてほしい」
と願いたくなるほどに
なぐられけられ投げ飛ばされつづけました。
かりにそれが
「おさないきょうだいのミルクを買うため」
という理由であっても
「許可なくお金を使うのはどろぼうだ」
という理論からの暴力でした。
「昔なら二度と悪さができないように
手がもげてしまうまで焼かれたところだ」
そんな
「いまされていることなんてずっとマシなんだぞ」
という理屈を聞かされながら
暴力に身を任せるしかありませんでした。
自分が殺されるか
赤ん坊を見殺しにするか。
究極すぎる選択のあいだで揺れていたわたしは
中学生になってなんとかごまかせそうになると
年令を高校生といつわって働きはじめます。
就職をしてからもなにかを思いついては
いつも副業をしていたことも
もしかするとこんな子どもの頃に経験した
「お金がないのは”死”に直結する恐怖」
からだったのかもしれません。
生き延びるためぎりぎりに挑んだ”工夫料理”とは?
よく10円ハゲにならなかったなとおもうくらい
いつもあたまを悩ませていた赤ん坊のミルク。
それ以外の食料としていえで作っていたのはカレーです。
人参抜きの。
知っていましたか。
人参っておもだったカレーに入れる野菜の中では
だんとつにはやくいたむんですよ。
作り置きしたカレーを長持ちさせるには
人参は入れないか
はじめの1日、2日で
注意深くぜんぶ探して食べてしまうのがおすすめです。
カレーの中ではまず肉よりも先に
人参が独特のネバネバを発しはじめます。
そうなってから人参だけとりのぞくという手も
ないことはないですが
腐った食べ物のイヤな臭いは
どうしても残ってしまいます。
それに人参から出たネバネバが
カレーの表面にカビがではじめるのを早めるんです。
たった一切れでも人参が残っていると
強烈なウイルスかなにかのように
そこから一気にカレー全体がいたむので
最後は人参を入れないようになりました。
親たちが帰ってこなくなったことに勘づくと
わたしはまずいえで一番大きなおなべいっぱい
カレーを作ります。
それを朝晩あたため直し
少しずつお水を足しながら
できるだけ長く食べ続けられるようにするのです。
ふつうは煮詰まった分を薄めるためのお水ですが
同じおなべのカレーをそうして一週間も食べ続けていると
もうカレーじゃないなにかになっていきます。
今だと
「スープカレーみたい」
なんておしゃれに思ってもらえるかもしれませんが
わたしたちきょうだいが食べていたものは
そんなハイカラなものじゃなかったです。
当たり前ですけれど
そこまで長く水ばかり足し続けると
カレーの味はうすくなってきます。
最後のほうはいつもおなべの中で
あとから足した水分と
なんとか生き残っているルーの部分が
4:1くらいの割合できれいに二層にわかれていました。
それをあたため直しながら混ぜるんですけど
もうカレーなんて味どころか
風味しか残っていないくらいです。
想像するだけで
「うえぇ」
っとなりそうないかにもまずそうな感じがしますよね。
そんな中でもきょうだいたちには
ひもじいとか、まずいものしか食べられない
なんて思いはさせたくありませんでした。
親が恋しくてたまらない子どもたち せめて食べ物くらいは・・・
産んでもらって育ててもらった(殺さずにいてくれた)ことに
感謝はしています。
わたしにだって「おっぱいがほしいよ」と
泣くことしかできなかった頃があるはずで
そのときほんとうにほうっておかれたら
いまこうして生きてはいなかったのですから。
だからこそありのままを語ることははばかられたわけです。
それでもこうして”よくない部分”だけを抜き出してならべてみると
にんげんとしてどうなんだ?
と自分の親ながら問いたくなる気持ちがわいてきます。
ここでもういちどいいたいのは
「わたしのことはいい」
ということです。
まえにも書いたとおり
わたしにとってこれらのできごとは
過去の一部でしかなく自分の一部であり
すでに起こってしまってかえられないことです。
それをいまさらどうこういいたい気持ちはありません。
そうすることが「えらかった」といいたいのでもなんでもなく
わたしがいつも考えていたのは
じぶんより幼いきょうだいたちのことでした。
泣くんですよ。
「お父さん、お母さん」
って。
淋しくて恋しくて泣くんです。
どんなに幼かろうと
自分より幼く弱い存在を自然と守ろうとするように
子どもはどんなにひどい仕打ちを受けようと
親を好きになるようにできています。
そうして”親”を恋しがって泣くきょうだいたちの
わたしが”親”になりかわることは
どんなにがんばってもできはしません。
あんなにひどい親でも
怖い夢をみて夜中に目が覚めたとき呼ぶのは
「お父さん」
であり
「お母さん」
なのです。
いつも申し訳ない気持ちでいました。
「わたししかいなくてごめんね」
と。
それはとんでもなく歯がゆくもありました。
どんなに大切に想い必死にめんどうをみても
いざというとき自分は必要とされないのですから。
そんなきょうだいたちも
なにも考えずにわがままをいって
わたしを困らせていたわけではありません。
ごはんがまずいとか
お洋服が洗い替えの2組しかないとか
クリスマスにプレゼントをもらえないとか
そういうことで文句を言ったり
泣いたりしたことは一度もなかったのです。
なんにもわるいことなんかしていない いい子たちばかりなのに
そこはわたしが幼いながらに
必死できょうだいたちの世話をしていたように
かれらもまたなにかを悟って
かんたんにつらさなど見せないようにと考えていたのでしょう。
だからわたしは自分にできることの中で
”足りない”思いはさせないと決めていました。
にせものではあっても親代わりのわたしとしては
「煙突がないけど
うちにもサンタさんは来る?」
なんて素朴な質問が
辛くて辛くてたまらなかったですけれど。
とてもサンタさんがくれたとは思えないような
手作りのプレゼントを
いえじゅうからかき集めたできるだけきれいな紙で作った
つぎはぎだらけのラッピングペーパーで包みました。
友だちに頼んでとっおいてもらった
ふつうのうちの子なら捨てちゃうようなリボンをかけて
12月24日の夜にきょうだいたちの枕元に置くのも
わたしが大切に思っていた役目のひとつです。
この子たちは母親や父親がいないことで
十分淋しい思いをしているのだから
それ以外で不自由な思いはできるだけさせたくない
いつもそう考えていました。
だから食材が底をついていく中
ほかにどうしようもなく作っていたうすいうすいカレーも
どうにかして味を保っていました。
カレーのルーを足せばいいじゃないかと
思われるかもしれませんがそれはできません。
次のカレーを作れなくなってしまうからです。
そこで編み出したのが
いわゆる「うまみ成分」を足すという方法。
そんな言葉自体
当時はもちろん知りませんでしたけれど。
だしの素になるようなかつお節とか煮干しを
カレーのおなべに入れてコトコトするわけです。
グツグツしちゃダメですよ。
煮詰まって量が減ってしまいますからね。
カレーをあたため直すとき
ぜったいにそばを離れてはいけません。
あとはおしょうゆを足す。
それも薄まってきたら今度はとんかつソースを入れる。
バターなんてなかったけど
マーガリンは使ったことがあります。
あとはいえの壁と塀のすきまの
30センチくらいしかない土の部分を
一直線に掘り返して
そこで人参・ジャガイモ・大根などと一緒に
パセリを育てていました。
ジャガイモはイモとして収穫しては
種イモを植えるのを繰り返すのですが
人参や大根はおもに
葉っぱの部分をちょっとずつ
切っては使うのに重宝しました。
パセリは彩りをよくするのと
きらいな人も少なくないあの独特の風味で
目先の味をかえるのに使います。
たぶんかつお節が入った時点で
もうあなたの知っているカレーではないですよね。
きれいに取ったおだしでカレーを作っているのではなく
茶色く湿ったかつお節や
頭もはらわたもつきっぱなしの
丸ごとのにぼしが見えるんですから。
あとは近所の養鶏場から
安く安く買わせてもらえた卵を
毎日ひとりひとつずつ。
おこづかいを貯めた数枚の硬貨で
10個以上もの卵をいただけるのはありがたかったです
それも月曜日はふつうの卵焼き。
火曜日は目玉焼き。
水曜日はスクランブルエッグ。
木曜日はゆで卵。
金曜日はオムレツで
土曜日と日曜日は甘い厚焼き卵みたいに
できるだけあきずに食べられる工夫をしていました。
ケチャップのチューブが新しくなるのを
今か今かと楽しみにしていましたね。
パンパンに詰まった真っ赤なチューブで
卵に絵や文字を書くのが
みんな大好きでしたから。
おさないきょうだいたちができるだけ
「自分はほかのうちの子とは違う」
と感じないで
笑ったり泣いたりけんかしたりしてくれることを
なによりも一番に考えていた子ども時代でした。
誰がケチャップで一番上手に絵を描けるかなんて
ほんの小さなことでキャッキャと笑ってくれたり
半分に切って埋めたはずのジャガイモが
5個に増えて出てきたといっておどろいたり
クリスマスのプレゼントを見せあって喜んでくれたりする姿は
なによりうれしかった。
育った人参を誰が一番さいしょに引っこ抜くかなんて
小競り合いさえ愛おしく思い出します。
親はなくとも子は育つ
もし今あなたが子育て中だったら
ちょっと切なくなるかもしれないそんなことわざ。
言葉の存在を知ったのはずっとあとでした。
でも
「あまりいえにいない親を頼るんじゃなく
わたしたちはわたしたちだけで楽しく暮らせばいい」
といつも思っていました。
それにけっして満足に親の役目を果たせたわけじゃないけれど
ちゃんと一人前に成長したきょうだいたちを見ても
「子どもはひとりひとりが
幸せになるちからを持って生まれてくるんだ」
心の底からそう感じるしそう信じることができます。
なにより
たくさんの逆境や苦労のなか
死なずに一緒に生き続けてくれたきょうだいたちに
感謝の気持ちでいっぱいです。
思い出すかぎりいつも
食べ物の心配をしていたと思います。
小学生の頃には赤ちゃんのミルクを買うために
いえのものを勝手に売り払って
あとからこっぴとく叱られていましたし
中学生になるとすぐに
年齢をごまかしてアルバイトをはじめました。
やっぱり言動が幼すぎたのか
なんでかばれてクビになることばかりでしたけれど。
そんなこんなでわりといそがしかった子ども時代のわたしには
自分の事情でいそがしい理由がほかにもありました。
かんたんにいうと『売上ゼロ事業主の逆転人生劇場』
【第2話】でもお話したとおり
「アタマのできがものすごーく悪かった」
からです。
朝晩ちっちゃな子を背負って
自転車で保育園の送り迎えをしていました。
いえの中のことも少しずつみんなに手伝ってもらいながら
食事のしたくや洗濯・掃除から光熱費の支払いまで
自分でするしかありませんでした。
自分が産んだ子どもはいないけれど
哺乳瓶の消毒のしかたも温め方も
赤ん坊をお風呂にいれる方法も
布おむつの使い方や洗い方まで知っています。
そしてそのあいだをぬうようにして
ザンネンなあたまでもなんとか授業に追いついていけるよう
夜となく昼となく勉強もしていました。
1974年生まれで70年代後半と80年代を
”子ども”として過ごしたはずです。
けれどわたしにはその”時代”の記憶はほとんどありません。
だから同年代のかたたちとお話をしても
「子どもの頃にあれがはやっていた」
「これに夢中になった」
という話にはあまり追いつけないのです。
まったくどこを切りとっても
追いつけないばかりの人生ですね。
それでもいまをおだやかに過ごせていることが
数少ない救いのひとつです。
それに出会いだけにはとことん恵まれていたわたしは
高校生になる頃には少し明るい記憶も増えてきます。
何度もお伝えしているように
いままでお話したことのどれも
とりたててたいへんだったと自覚したことはないのです。
ですからいつでもそれなりに工夫をして
楽しく生きてきました。
行動範囲のより広がる高校生くらいからは
よりそんな明るい部分が増えたように感じられるのかもしれません。
少しおとなに近づいたら近づいたで
● 風営法
● 労働基準法
● 児童福祉法
のすべてに違反するような環境で
無給でむりやり働かされたり
なんて弊害が出てきたりもしましたけれど。
そのお話もまた次回させていただきますね。
今回もさいごまでおつきあいいただき
ありがとうございました。
いままでとこれからのお話はこちらです
【第一話】「みんなほんとにそんなに速いの?」 働いてはじめて気づいた致命的な自分の遅さ